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横浜市南区の不動産会社栄都

横浜で初めて塗装業が開始されました。

2012年4月29日 日曜日

日本における塗装の始まりは、1854年(嘉永7年)2月13日、

ペリー再来航の際、林大学頭が江戸の渋塗職人町田辰五郎に通商交渉を

行う横浜応接所(現在の横浜外交資料館付近)の建物外部のペンキ塗装を

命じた事がきっかけと言われています。

町田辰五郎は幕府からペンキの一手取り扱いと、外国公館(領事館・公使館)

塗装の特権を与えられました。

1856年(安政3年)にアメリカ総領事ハリスは、神奈川宿本覚寺を

領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗りました。

これを機に、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立されました。

1865年(慶応元年)に大工のT.S.スミスが塗装業を始め、日本人

では伊藤幸太郎と桜井鉄五郎がペンキ塗装業を始め1872年

(明治5年)鉄道建設の停車場の工事を請け負いました。

1866(慶応2)年11月26日、関内で大火が発生し、それ以後西洋建築の

建物が建てられ、ペンキ塗装の需要も高まっていったそうです。

現在、元町公園に塗装発祥地いわゆるペンキ発祥の記念碑があるのですが、

元町公園とは何ら関係がない為、何故元町公園に建てられたかについては

分かっていないという事です。

 

石鹸工場1号

2012年4月19日 木曜日

発祥の地としての南区

ビール工場、アイスクリーム、ガス灯、競馬・・・これらは横浜が発祥地とされているんですね。
でも南区が石鹸工場の発祥地であることはあまり知られていません。
だったとしてもあまり関心ないですか…ね?

明治初期、地元の実業家、堤磯右衛門(つつみ・いそえもん)は、
当時そのほとんどが輸入品であった石鹸の国内需要の増加を見越して、現在の南区万世町2丁目に石鹸工場を造りました。

彼は製法の研究に努め、明治6(1873)年、製造に成功しました。
磯石鹸製造工場で造られる石鹸は優良品で、香港や上海に輸出され事業は発展したそうです。

現在は、万世町2丁目の中村川沿いにある万世ポンプ場脇に、南区制50周年を記念して「石鹸工場発祥の地」の銘板が設置されています。
三吉演芸場のすぐ隣です。
そのまま事業が成功していれば、今頃みなとみらいあたりに磯右衛門石鹸㈱本社があって、横浜に石鹸あり!という地位を築いたかもしれませんが、
全国的な不況の中で経営規模を縮小し、明治24(1891)年に磯右衛門が亡くなると間もなく廃業しました。
事業を続けることの難しさを知らされますね。

磯右衛門が偉いのは、単なる輸入品の「模倣品」をつくったのではなく、研究の末、オリジナルを超える質の良い製品を産み出したことです。
私はほぼ毎日その碑の横を車で通っていましたが、全然気づきませんでした。

これからはちょっと当時の様子に思いを馳せてみようと思います。磯右衛門さんに敬礼。