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横浜市南区の不動産会社栄都

オフィス街に住むということ

2012年5月11日 金曜日

横浜の景色は一変しました。

オフィス街にベビーカーを押すお母さんがたくさんいるのです。

以前なら中区の関内は事務所と飲み屋ばかりで、人が「住む」土地ではありませんでした。

ところが地価が落ち着いたことから、そこにマンションが建ち、当然子育て中の家族が住むようになりました。

関内もそうですが、みなとみらいも、桜木町も、横浜駅周辺でも、普通に生活している世帯が増えました。
ちょっと前までは倉庫と事務所ばかりで、夜になると暗~い場所だった品川駅の海側も例のマンション建設ラッシュで変わったでしょうね。

家族…特に働くお父さん、お母さんがたにとってはとても楽になりました。
郊外に住む「従来」の暮しでは、ターミナル駅まで出るに電車、バスや自転車を乗り継いで「やっと」という感じでしたが、
今やターミナル駅から通勤がスタートできるのですから。

以前は横浜駅はおろか、関内駅徒歩3分に住む…なんて考えられませんでしたからね。

どこに住もうと自由なことですが、
アウトドアが好きな私はちょっと息が詰まってしまうかもしれません。

土のにおいがしないコンクリートの世界で
子供たちは毎日どんな「感じ」で暮しているのか興味をもってしまいます。

もちろん自分たちもそうだったように、40年前の自分と比較するのは意味がありませんが、
環境の違いは歴然です。

今の時代の子供さんたちが40歳になったときに、どういう価値観を持っているのか
大変興味があります。

カエル見たことある?「ない」。 田んぼ見たことある?「ない」。菜の花見たことある?「ない」。
「見たことないけど、すぐ検索できるよ、ほら」 て言われそうで。

それとも、「カエル、田んぼ、菜の花…知らないといけませんか?」…て言われちゃうのかな?

 

 

都会に住む・・・本音を言うと・・・

うらやましいです(笑)

実は、鉄道発祥の地は横浜でした。

2012年5月1日 火曜日

1872年(明治5年)5月7日、横浜―品川間を初めてテスト営業として

鉄道が走り、4ヵ月後、区間が新橋まで延長され、9月12日、横浜―新橋間

での本営業となりました。

これが日本における鉄道の始まりです。

当時は1日9往復で、運転時間は53分でした…ちなみに現在の東海道線の

横浜-新橋間は約22分です。

最初の横浜駅のあった場所は現在のJR桜木町駅で新橋は現在の汐留でした。

当時、横浜と新橋の間を53分で走り、大変スピードの速い乗り物だったそうです。

もしも馬車でこの区間を走ったとすると、4時間はかかった時代です。

運賃も相当な高額で、人々はすぐに鉄道を利用しようとはせず、自分の足で1日かけて目的地までという

従来の方法を取る者が多かったといいます。

そばが1杯5厘という時代に、1番安い下等の料金が50銭…そばを

100回食べたつもりでやっと下等に乗る事ができたのです。

後に運賃は改定され、上等1円12銭5厘、中等75銭、そして下等は

37銭5厘となり、1日9便の運行となりました。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、新橋駅にSL広場があり

私はてっきりそこが鉄道発祥地だと思っていました。

しかし、新橋に通る以前に横浜-品川間で運行していたとは知りませんでした。

 

横浜で初めて塗装業が開始されました。

2012年4月29日 日曜日

日本における塗装の始まりは、1854年(嘉永7年)2月13日、

ペリー再来航の際、林大学頭が江戸の渋塗職人町田辰五郎に通商交渉を

行う横浜応接所(現在の横浜外交資料館付近)の建物外部のペンキ塗装を

命じた事がきっかけと言われています。

町田辰五郎は幕府からペンキの一手取り扱いと、外国公館(領事館・公使館)

塗装の特権を与えられました。

1856年(安政3年)にアメリカ総領事ハリスは、神奈川宿本覚寺を

領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗りました。

これを機に、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立されました。

1865年(慶応元年)に大工のT.S.スミスが塗装業を始め、日本人

では伊藤幸太郎と桜井鉄五郎がペンキ塗装業を始め1872年

(明治5年)鉄道建設の停車場の工事を請け負いました。

1866(慶応2)年11月26日、関内で大火が発生し、それ以後西洋建築の

建物が建てられ、ペンキ塗装の需要も高まっていったそうです。

現在、元町公園に塗装発祥地いわゆるペンキ発祥の記念碑があるのですが、

元町公園とは何ら関係がない為、何故元町公園に建てられたかについては

分かっていないという事です。