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横浜市南区の不動産会社栄都

南区は横浜イチの人口密度

2012年4月29日 日曜日

ここ南区は、横浜市にある18区の中で最も人口密度が高い区です。

それも、2位の西区に大差をつけて。意外でした。

ちなみに最も少ないのは泉区です。

全国的にはどうなのでしょう?

日本の区単位の順位で検索してみると・・・
1位は 東京都豊島区の22,008人/k㎡
そして、中野区、荒川区、大阪の城東区、文京区、目黒区、墨田区、新宿区・・・と続き、
横浜市南区は15,415人

市単位だと、
1位は 埼玉県蕨市の14,077人/k㎡
そして武蔵野市、西東京市と続き、川崎市が13位、そしてなんと横浜市は48位の8,440人。
いかに、南区が横浜市の中でも突出しているのかがわかるでしょう。

さらに国別でみると
一番人口が密集している国は
モナコだそうです。
シンガポール、バチカン・・・と続いて、韓国が12位、そして日本は21位。

ちなみにそのモナコで16,244人、韓国が、486人、日本が336人です。
2010年1月に米誌フォーブスが発表した「人口密度の高い都市トップ20」では、

1位がインドのムンバイ(29,650人)
2位もインドのカルカッタ(23,900人)
6位の韓国ソウルが16700人、
7位の台湾台北が15,200人。
横浜市南区の人口密度が台北とだいたい同じ・・・といっても、行ったことが無いのであまりピンとこないですね。

オチが無さ過ぎでしたけど、南区の人口密度が世界的に高レベルにあることだけ、
お伝えしておきます。

そんなに密集しているとは・・・普段あまり感じないのも実感ですけどね。

横浜で初めて塗装業が開始されました。

2012年4月29日 日曜日

日本における塗装の始まりは、1854年(嘉永7年)2月13日、

ペリー再来航の際、林大学頭が江戸の渋塗職人町田辰五郎に通商交渉を

行う横浜応接所(現在の横浜外交資料館付近)の建物外部のペンキ塗装を

命じた事がきっかけと言われています。

町田辰五郎は幕府からペンキの一手取り扱いと、外国公館(領事館・公使館)

塗装の特権を与えられました。

1856年(安政3年)にアメリカ総領事ハリスは、神奈川宿本覚寺を

領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗りました。

これを機に、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立されました。

1865年(慶応元年)に大工のT.S.スミスが塗装業を始め、日本人

では伊藤幸太郎と桜井鉄五郎がペンキ塗装業を始め1872年

(明治5年)鉄道建設の停車場の工事を請け負いました。

1866(慶応2)年11月26日、関内で大火が発生し、それ以後西洋建築の

建物が建てられ、ペンキ塗装の需要も高まっていったそうです。

現在、元町公園に塗装発祥地いわゆるペンキ発祥の記念碑があるのですが、

元町公園とは何ら関係がない為、何故元町公園に建てられたかについては

分かっていないという事です。

 

今では当たり前の貸し自転車業・・・発祥は横浜元町でした。

2012年4月28日 土曜日

1877年の横浜元町の三丁目で石川孫右衛門が日本人初の貸自転車業を開業しました。

貸自転車業を始めるまでの経緯としては、1877年に孫右衛

門が居留地31番地のチリドル商会を通りかかったときに

館主チリドルが自転車に乗っているのを見かけ、自転車を

見ていた孫右衛門にチリドルはこう話しかけたそうです。

「自転車は、汽車の次に早い乗り物で、練習すればどんな

狭い道でも走ることができる便利なものだ」と・・・。

 

西洋の各国では盛んに使っている自転車を借りた孫右衛門は30 分ほどで

乗れるようになり、その帰り道に「自転車は確かに便利だが、一台で銀16 枚と

いう高い値段では誰でも手に入れられる物ではない。この自転車を仕入れて、

時間貸しすれば大儲けできるのではないか。」と考えたそうです。

乗り方をチリドルに教わり、チリドル商会に自転車を注文しました。

この当時の自転車は借りるのにも高値で1時間25銭(当時、鰻重は

20銭ほど)にもかかわらず貸自転車は不足するほど大繁盛でした。

孫右衛門も「仏蘭西商館」から1887年に自転車を20台購入し貸し出しを

始めたところ大好評でした。

また、孫右衛門は住吉町6丁目に石川商会を設立し、1912年まで営業していました。

今では観光地やそれ以外でもレンタサイクルは当たり前のようにありますが、

約130年前にこのシステムを考え出した石川孫右衛門はすごいと思います。

約130年後の2140年に何が求められる時代になっているのでしょうか。

その時代を見ることは出来ませんが、かなり気になるところです。